
子供は、ちょっとした言葉のアヤや、思わぬところで使われる擬音に大笑いすることがよくある。
例えば、わしが小学校3年の時、隣の男の子が童謡を聞いて大笑いをしていた。その歌は、『ドロップスのうた』。多分ドロップスという言い方をしない日常、ドロップをドロップスと聞いて、その擬音的なところから、プスがプスーで、屁やおならの擬音と同じと思ったのだろう。
どちらかと言えば、おしっこうんこのネタの好きな子供は結構いたものだ。笑い的にね。さらには軽蔑的な意味で忌み嫌う子供もいたけど。教室でおしっこ漏らした子はいつまでも馬鹿にされてたけど、あおっぱなをいつも垂らしていた子は、それほど馬鹿にされなかったのは、教室に3人くらいの割で必ずいたんもんだからだろうか。まあ、親の時代から大勢いたんだろうね。
それはともかくとして、レトリック感覚が0の最近のお笑いが面白くないのは、前記の次元だからじゃないだろうか?
言葉によるレトリックな感覚よりも、他の感覚で笑いを誘うのは、聞く人によって全く違う表現を提供していることになるので、笑える人と全然面白くないと考える人が出てくることになる。
論理的でレトリックな笑いは、ネタを考えた人の論理性やオチまでのストーリー性が笑いを誘うけれども、ギャグ的な擬音ばかりの台詞は、ドロップスと同じ次元じゃないだろうか?
感覚的に大笑いするのは幼児感覚だなと思うのである。
ふぉーっふぉっふぉっふぉ(^o^;)
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